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2017-03-22

その日の海はエメラルドグリーンで、すごくきれいだった件。

ソファと棚の隙間に縦長の本棚を置きたくて、近くの家具職人さんにぴったりサイズのを作ってもらおうか、それとも自分で作ろうか悩んだ挙句、結局アイリスオーヤマのをamazonで注文し、自力でコツコツと組み立ててようやっと本棚をGETした。早速、先日実家から運んできた段ボール3箱程度のマイ厳選書籍を新しい本棚に収納。
お気に入りの本が身近にあると安心する。
いっきに自分の中に「マイ文化」が戻ってきた感じがした。
しかし、品ぞろえは思いのほか児童文学が多い。それとなぜか昔のSO-EN。ページの後半を占める洋服のパターンを見ているだけで落ち着く。というか重石代わりだ。そのうち、新しく買ったレコードと徐々に入れ替えることになるだろう。プロレス雑誌は入りきらなかった。

 

実家から持ってきた本の段ボールの中に、和合亮一氏による25人の福島県の震災被災者のインタビュー集「ふるさとをあきらめない  ―フクシマ、25人の証言―」が入っていた。

 

すごく久しぶりに読んだら、かなりエグかった。。福島県内でごく普通に暮らしていた人々が体験してしまったそれぞれの東日本大震災が淡々と、生々しく語られている。実はこの25人の中に私も入っていて、一般人の癖にロングインタビューに答えている。せっかくなのでその一部を抜粋引用して掲載しておく。

 

↓「ふるさとをあきらめない  ―フクシマ、25人の証言―」(著・和合亮一)より一部引用

その日の海はエメラルドグリーンで、すごくきれいだった。
 
インタビュー、編纂 和合亮一氏
答えた人 私

少し前まで話をしていたのに

━━(和合氏 以下省略)3月11日は職場にいらしたんですか?
仕事中でした。上司と車で、筋ジストロフィーのM君という男性を久之浜に送り届けた直後に地震が起きました。

━━毎日送迎しているわけですね?
ええ。その日はたまたま私の当番でした。今の作業所の所属になって数ヵ月ぐらいしかたっていなかったので、なかなかみんなと打ち解ける機会がなかったんです。でも、なぜかその日はたまたまM君と深い話をずっと送迎の車の中でできたんです。

━━どんな話でした?
小学生のときに筋ジストロフィーを発症した話ですね。校庭でバタッと倒れるようになってしまったと言っていました。以来、だんだん病状が悪化していったことも話してくれました。趣味のテレビゲームのこととか、今に至るまでの経緯とか。あまり喋る人じゃないんですけど、すごく喋ってくれて、ずっと聞いていました。M君は今の作業所にとってすごく必要な存在で、M君がいてくれるだけでありがたいんだよ、みたいなことを言って私もなんだか饒舌でした。海沿いの道を走っていたのですが、普段イメージが暗い波立海岸から見た海の色が、その日はエメラルドグリーンで、「きれいだね」なんて話しながらM君の家に向かっていたんです。
いつも通りM君を自宅に送り届けて、体が不自由ですのでベッドの上まで上司と二人で上げて、呼吸器もセットしました。おばあちゃんと一緒に住んでいるんですが、おばあちゃんも脚が悪くて立てない状態です。ちょうど洗濯物をたたんでいるところで、私たちが帰ろうとすると、脚が不自由ですからそのままのひざを摩った姿勢で玄関まで出てきてくれて、「今日もありがとうございました」と言ってくれました。私たちも、「また来週来ますからね」と、そこで別れたんです。いつもは海岸線を通って作業所まで帰るんですけど、その日、上司はなぜか、「今日は山側を通って帰りたい」と言うんです。きっと、裏道で行きたかったんだと思います。そうして走り出して、5分か10分経たないぐらいで地震が来たんです。

━━乗っている最中?
ええ。海の方向を見ると、遠くで土ぼこりが上がっていました。もう、どうしようという感じでした。M君の家に戻んなきゃいけない、助けに行かなきゃという気持ちもあったんですけども、上司は「ダメだ、危ない。逃げないと」と、そのまま走りつづけました。後ろ髪引かれる思いがしましたが、「戻りましょう」とは強く言えず……。

━━M君の家は海沿いなんですね?
そうです、海沿いです。津波も想定できたので、かなり危ないはずです。途中、道路は水道管が破裂して噴水状態だし、塀がところどころ倒れている道を通って作業所に戻ったんです。そして戻ってしばらくしたら情報が入ってきた。M君とおばあちゃんは津波に流された、と。あっ、どうしようと…..。

━━家ごと?
そうですね。別の男性ヘルパーが立ち寄ったら、家の骨組みしか残っていなかったって。もちろん、誰もいなかった。

━━辛かったですね。
はい。ちょっとあり得ないっていうか。沿岸の地域では亡くなった方がもちろん多かったんですけども、自分の知り合いで亡くなった人はほとんどいなかった。

━━じゃあ、M君くらい。
ええ。少し前まで話をしていたのに、自分が置いてきてしまった。すごく自責の念があって、自分が殺しちゃったのかなって気持ちがいまだにあります。

━━そんなことないですよ。
まだ消化しきれない部分があるんですよ。うーん、なぜ助けに行かなかったのかっていう思いが自分の中にある。

━━その日の夜は?
作業所から帰れる人は帰ったし、帰れない人はそのままいました。私は家に戻れました。それからがけっこう大変でしたね。幸いなことに電気は停電しなかったので、呼吸器を付けている人は大丈夫でした。ただ、食べ物や飲料水が不足して、お風呂も入れない状態が続きました。

━━松田さんは一人暮らしですか?
母と二人です。

━━お母さんとは連絡は?
すぐに取れました。

━━作業所では皆さん何を作られてるんですか?
ハガキや名刺をデザインして印刷するんです。身体が不自由な人ばかりなのでパソコンを使った作業ですね。

━━そこで松田さんは作業をお手伝いするんですね?
はい、そうです。

━━お昼ごはんも一緒に食べて?
ええ。介助しながら、という感じですが。

━━その日の夜は眠れましたか?
その日からしばらくはもうほとんどろくに眠れない状態が続きましたね。地震や津波だけじゃなくて、やっぱり原発で参っちゃいました。

━━原発の脅威を感じたのはいつぐらいからですか?
記憶がないんですけども、冷却機能が止まったというニュースが入った時からですね。あとはツイッターとかで情報が流れて。

━━普段からツイッターはしていたんですか?
ええ。ただ、3.11の前と後ではツイッターの意味が違ってきましたね。震災の前、私は何をつぶやいていたのかという記憶があまり……。

━━どんなふうに変わってきたんですか?
生き延びるためのツールに意味合いが変わってしまって。それまではもっとゆるかった。以前は、仕事の愚痴とか今日の出来事とかいう感じだったんですけども、3. 11後は食べ物がないとか、こっちがほんとに大変だとか、置きざりにされたペットが餓えてるとかそういうツイートがほとんど。人によって違うんでしょうけどね、私のほうに流れてきてたのはそういうことばっかりでしたね。

━━3月12日以降はどんなふうに過ごされましたか?
基本的には自宅にこもりつつも、介護を必要とされてる利用者さんは震災に関係なくヘルパーさんが必要なので、在宅介護に行ったりしていました。ほんとは外に出たくなかったんですけれども。

━━それは放射線が心配で?
そうですね。

━━いわきはどれくらいだったんですか?
一番高い時で毎時23マイクロシーベルトぐらいでした。

━━福島市と同じくらいですね。
ただ、その数値は今だから分かるんであって、当時はまったく分からなかった。後から「あっ、そんなにあったんだ」という感じです。

━━あんまり情報は入ってこなかった?
ええ。まったくといっていいくらい。最初の1週間は、「マイクロシーベルトって何?」って感じでしたから。だから、平気で外に出ちゃう人もいた。私も用水路で水汲みとかしてました。在宅介護の仕事もあったので、スノーボードのウェアーを着て、ゴーグルとマスクして、スノボ用の手袋をして、一日3回ぐらい利用者さんの家に行ってました。

━━利用者さんはどんな暮らしを?
私が担当していたのは一人暮らしの方だったんですけども、割と平気でしたね。

━━深刻さがない?
ええ。社会との繋がりが希薄な人も少なくないんです。

━━食事とかは?
手に入りにくかったですね。だんだん厳しい状態になっていきましたけど、なんとか細々と。

━━センターの方で食事は用意してくれているわけですか?
いえ、本人です。備蓄している利用者さんだったので、その中からちょっとずつ料理をして。

━━買い物は本人がするわけですか?
そうですね。普段は一緒にスーパーに行って本人の指示でヘルパーが買い物をする感じです。

━━料理も一緒に作って?
はい、料理もヘルパーがします。

人として失っていく何か

━━その後、避難はしたんですか?
避難しました。うちの作業所が、障害者を抱えていましたので、障害者も職員もその家族も避難しようということになりました。福祉関係のネットワークのお陰で、東京の新宿区にあるバリアフリーの福祉系の宿泊施設に大半が避難しました。

━━いつからいつまでですか?
3月18日から4月の半ばぐらいまでの約1カ月間。しばらくするとこちらの作業所も再開されたので、私は途中で帰ってきたんです。新宿では東京のヘルパーさんたちもいて人手は足りているという感じになってきたので。

━━障害者の方の症状もみんなまちまちなわけですよね?
そうですね。

━━今までと違う場所に行って同じ生活はできないわけだし。場所が変わるとすごいストレスですよね?
ええ。介助する側も結構ストレスがありました。共同生活になってしまい、いつ戻れるかもわからない。この先、どうしようっていう不安で、ミーティングを何回も開きました。帰りたいと思ってる利用者さんや職員もいるし、逆に残りたいという人もいた。なかなか戻る踏ん切りがつかなくて1週間延長、2週間延長となった。原発の状況も平行線で収束しなかったし。

━━その頃どんなことをお考えでした?
避難することになったときは、もう二度と戻れないかもしれないっていう覚悟で出ました。

━━お母さんはその時は?
実は、母も同じ作業所で働いているんですよ。それが心強かった。いろいろ話し合いました。東京で仕事見つけるしかないかなとも思いましたし。帰って来れないかもしれないっていう覚悟はありましたね。帰っちゃいけないんじゃないか。帰る選択肢があったとしても帰るべきじゃないんじゃないかと。いろいろ葛藤がありました。

━━お気持ちとしては、戻りたいっていう気持ちが強かったですか?
うーん、複雑ですね。このまま東京にいても生きる意味っていうものがないというか。東京にいたら、心の中では一生、避難民という感じで生活せざるをえないだろうし。いわきに戻ったら、やることがたくさんありますから。

━━それは、仕事?
ええ、それとボランティア。炊き出しの手伝いに行ったりとか。やることがあるのに、東京にいてもしょうがないんじゃないかと。

━━東京にいれば、避難しているわけだから、安心なんですよね?
援助も手厚くしてくれましたから。ただその、なんでしょう、受ける側というか、被災者の「被」っていう立場でただ何もせずにいる状況はどうなのかな、と。なんかこう、自分の中で擦り切れてくる部分があって。人として失っていく何かが、尊厳っていうか、なんて表現すればいいんだろう。

━━わかります。
なにかこう、違和感がね。

━━僕も、避難所にお世話になった時、このままだと自分の中にね、生きていく思想がないって思えたんですね。これはぜんぜん思想のない生活だって。被災者の「被」になると一つなんかこう弱い。弱いって言ったら語弊があるんですけど、なんかちょっと一歩違う世界に入っているような。
そうなんです。へりくだったような。

━━それでも介護の仕事は東京でもしていたんですね?
はい。介護の仕事をしつつ、空いた時間もあり、新宿だったのでふらふらと街を歩いたりしていましたけど。ただ、3日に1回は、車で救援物資をいわきに届けていました。そうして日帰りで戻ったりすると、いわきはゴーストタウンに見えました。走っているのは迷彩色の自衛隊の車しかないし。

━━震災後、僕はずっと福島市におりましたが、ニュースを見ていると、いわきってほんとに人がいなかったですよね。
ぞっとするぐらい。コンビニももちろん開いてないし、何もかも閉まってる。

━━原発の影響ですか?
そうでしょうね、やっぱり。

━━自宅から発電所までは?
42キロぐらいかな。第二原発までだったら30キロ圏内だと思う。

━━近いですね。いわきと新宿を行ったり来たりして何を感じていましたか?
ギャップの激しさに、めまいがしました。本当にくらくらした。東京の人と話をすると、他人事とは言いませんが、やっぱり遠くの話というか、温度差はかなりある感じでした。

━━東京も被害はあったんじゃないですか?
節電で明かりは消されてはいましたけども、デパートも開いているし、普通に生活している状態でしたね。

━━怒りとかはありましたか?
ええ。だって、東北では着るものも食料もないと叫んでいる状況なのに、新宿の伊勢丹とかに入ると洋服選んでる女の子が、「これ買って」って彼氏にねだってるんですから。私の中では、新作の洋服を見定めるような余裕がまったくなかった。もっとこう自分が緊急の事態にあった。生きるために何が必要かという態勢にありました。…………
(以下省略)

 

━━続きは「ふるさとをあきらめない  ―フクシマ、25人の証言―」(著・和合亮一)をお読みください。


ふるさとをあきらめない―フクシマ、25人の証言―
(以下amazonより)
3月11日。どこにいて、何をしていたのか? その後、何が起き、今どんな暮らしなのか? 職場を失い、家を流され、友を亡くし、家族と離れ、放射線に怯える。絶望、悲しみ、怒り――ふるさとは、収束にはほど遠い。それでも誰かに助けられ、望みもほの見えてきた。被災した詩人に向け語られる、今なお続く一人一人の福島の現実。
(以上)

 

 

「いつまでも過去のことを蒸し返しても……」「過去は過去、もっと前を見て生きようよ……」と言われても、私の中で震災はぜんぜん終わっていないし、力ずくで終わらせようとしても自分のことだからきっとまた行き詰まるだろう。他人からは後ろ向きに生きているように見られているとしても、「そむけたい過去としっかり向き合うこと」が「前を向いて生きること」なのではないだろうか、と思ったりもする。だから、暗い顔して生きていても良いと思うのだ。その結果、冴えない、つまらない人生で終わったとしても、お勤めご苦労様、といったスタンスで良いのではないだろうか。

とはいえ、いすみに引っ越してきてから、自然を愛し、お金で簡単に買わずになんでもDIYで自力で作るみたいなユニークな価値観を持つ若い移住者の人たちから良い影響を受けたりもして、決して悲観的になってはいない。自分だけのことじゃなく先の先を見据えて、この社会環境の中で自分たちにできることをしていこうというポジティブかつ自然体な空気感を感じられる土地に来れたのは私にとって幸いだった。
あの震災を経験したのだから今までと同じ古い価値観を引きずってたらいけない、なんかもう私、新しい自分に生まれ変わらなきゃいけないんだろうね、という焦りが常々あった。そう思いながら自力ではなかなか変われないものだ。お年寄り向けなイメージがあった醤油絞りや竹炭づくり、有機農業関係のイベントに行くと若い世代の人たちが普通に参加していて、そうか、そんな時代なのか、と感心しきりな日々だ。
数頭の牛を飼い、絞った牛の乳でチーズを作って売る家族とか、ほぼ自給自足の夫婦とか、そんな人たちが身近にいて、刺激を受けている。もしずっといわきにいたらこれといった新しい出会いもなく今も精神的にひきこもったままだったかもしれない。

「衣・食・住」とどう向き合うかが自分のこれから作り出すものに大きな意味を持っている気がする。それらが表には出なくても。
正直に言うと私は、夏にエアコンがないと生きた心地がしないし、ウォシュレットと暖房便座のついていないこのアパートのトイレにかなり不満である。
いちばん思うのは「地に足のついた、自分に嘘のない生き方をしよう」、ということだ。


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