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2015-10-23

プチ自分内戦後文学つれづれ。

明日は下北沢へライブをしに行ってきます。
下北沢で歌う……。なんでもない人にとってはなんでもないことなのかもしれないが。。。

昔、下北沢に住んでいたことがある。

そんなに裕福な家じゃなかったから、高校3年の1年間バイトをしてお金をためて上京した。しかし、実際住んでいたのは正味3ケ月ほど。
家庭の事情で、帰郷せざるを得なくなった。その頃は、なにがなんでも!と思うほどの明確な夢はなく、(よくあるパターンで)自分探しをしようと思って上京した。進学したアートスクールを退学してアパートを引き払うことになった時は泣いたが、身内が生きるか死ぬかという状況のなか、私は当然のように身内のほうを優先した。

その後、在宅介護生活が7年半続いた。まさかそんなに長く続くとは思ってもいなかった。

生死をさまよったのちに重度障がい者となった身内は、自分で食事をすることも、排せつすることも、寝返りを打つこともできなかった。床ずれ防止のため1~2時間ごとに体位を変えてあげる必要があった。そしてそれは、ひどい暴言を吐かれたり、時には暴力をふるわれながらの介護であった。愛する恋人や、これまで絶対的な信頼関係を築いてきた身内であれば、また違った気持ちで納得しつつ介護できたのかもしれない。いや、それはそれでキツいだろう。ともかく、私はその身内と長いこと一緒に暮らしていなかった。というか、私が中学の時に両親は離婚していたらしい。私も弟も、それを知らされていなかった(その後籍を戻したようだ。いまだにモヤモヤっとしている)。
もしうちが裕福だったら、24時間介護の専用ヘルパーを何人か雇うなど、お金で解決できることもあったかもしれない。また、たとえば赤ちゃんの世話はとても手がかかるが手をかけただけ成長していくし、やがて自立していく。何より、赤ちゃんはかわいい。その逆の、成長や回復の見込みのない成人の介護は、そういう意味でのしんどさがある(そこに面白さや深みを見出せる人もいる。私もなるべくそうしてきた)。

ある日、私が目を離したすきに身内が暴れて体がうつぶせになってしまい、枕に顔をうずめた状態で窒息寸前の全身紫色のチアノーゼになっていたことがあった。そんな具合に、24時間緊張状態を強いられる生活が7年半続いた。働きながら、母と交代で介護をしていた。その間、いろんなことがあった。私は耐えられなくなって一度家を脱走し、逃げた罪悪感にさらに耐えきれず、帰ってきたこともあった。

身内が死んだ後しばらく、私は戦地から帰還した兵士のような精神状態になっていたと思う。

その後結局下北沢に再び住むことはなかった。

3.11の地震・津波・原発事故は確かに眠れないほど恐ろしかったけれど、19歳から26歳までのあの日々のほうが私にとってはずっとおぞましい出来事として記憶に焼きついている。

……ということを書くつもりではなかった。

下北沢でライブができてとってもうれしい今さらだがこのやろう、ということを言いたかっただけだ。歌も楽器もうまくはないのは承知だし、若くもないけど、別に良いではないか。もっと喜んでいいはずなのだが、戦地から帰還した兵士のような気分は相変わらず続いていて(複合的にいくつかの要因あり)、ちょっと感情が麻痺しているというか、へんな感じである。その、死んだ身内の展覧会が現在岩手で開催中だが、こちらに関してもとにかく複雑なへんな気分なのである。

3.11後、下北沢のレコード屋さんに時々行くようになって、下北沢に不思議なご縁を感じた。

しかし、2011年の時点ではこの街で自分がライブをすることなどまったくイメージしていなかった。

最近は、何事もあまり深く考えすぎず「あ、そうなんだね」とありのまま受けとめるようにしている。ここ数年、シンクロニシティやミラクル(良くも悪くも)や、想定外なことが身の周りに起こりすぎていて、いちいちつじつまを合わせていったら追いつかない。


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