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2015-09-09

アゝ、あれはついにだめになったか

 

下は、「四角との対話」裏表紙の引用コピー候補文。この中から、どれを選ぼうか悩んだ末、第42回の「イーハトーブ……」のくだりを掲載することにした。個人的には第45回の「『アゝ、あれはついにだめになったか』……」の文も好きだ。

4.
しかし、暗がりの中で目をひらき、じっと耐えていると、段々と、かすかに何かが見えてきた。それは、ものごとは装いをとりはらうと単純なもので成りたっているのではないか、という認識であった。

7.
たしかに、絵の具の一つひとつは、どの色もそれ自体、単独でも美しい。しかし、その美しさは――純粋というよりも、知性の欠けた白痴に近い単調な美しさにすぎないのだ。
色は、それを選びとった者の心の純粋さの度合いによって、別のいのちが与えられ、生きるも死にもし……美しくも、またみにくくもなる。
選びとられたその色は、愛する者の手によって、新たな使命を与えられ、キャンバスの上で、他の色と激しく戦うことに身をさらす。そのとき対峙する、色と色とのかねあいによって、次第にその表情が豊かにも、また深くも、浅くもなってゆく。

8.
たとえば――。人は生きるために、善意で罪をかさねていく。自分が白であると感じる時は、まわりが自分よりも汚れて黒に近い時だけである。比較によってしか自分が白であることを証明出来ない程度の白さなのだ。しかし、それは決して白くはないのだ。
この社会の中で、人並みに生きながら、白でありつづけるには、己の中に高い自浄能力をもつか、まわりを白でとりかこむ以外にない。しかし、それはむずかしい。今の社会の中では、黒に近い白でないと生きられないことになっているからだ。

それが、風景の中で、その白を、地面でもなければ、さりとて雪でもないものにした。私は私自身のなかにある凍ばれるような硬質の空気と柔らかい大地のような何かを求めつづけた。

12.
私にとって絵を描くとは――自分が失ったであろう過去の顔と、これから日々変わっていく自分の本当の顔との出会いや求めあい、また知るための作業にしかすぎない。
そして、それは、画面の中で祈るような気持ちで、自分の犯したひとつひとつの罪と向きあうことからはじまった。

白い世界には、罪を重ね、それを悔やみ、別れにも耐え、泣くことも、悲しむことも、自分が孤独であることすらをも、心で感じる余裕を失った人しか住めない。
それは、男でもなければ、女でもなく――他人に背中だけしか見せることが出来ない人々であれば良かった。
顔のある、正直でない、他人を支配したがる人間臭い者は、この白い地の表をかかえた世界では、とても生きていけないからである。
その、厳しく清潔な……、やわらかい白い地表こそ、今では、私にとって心のやすらぐ大地であり、私を支え、育む――精神の母体であると思われるようになった。

16.
今の自分は、そこへ戻りたくても、すでに戻りようがないほど、遠く離れた別の地点に立っている――かつてのその透明な精神に、今の自分の精神を重ねながら、私は心がキリキリと痛むのを感じていた。

17.
創作とは感動したものを描くことではない。自分が真に感動すべきものを自らの手で、創り出していく作業である。
他人は決して、一〇〇%自分自身を感動させてくれるものはつくれないからである。

33.
白の柵から、黒を解放してやりたい――それはまた、永らく白にとらわれて来た自分の心の自由さを獲得することでもあると思った。あるいは、その事で、自分の心の解放にまでは至らないとしても、やるだけのことはやってみようと決心した。

35.
「芸術はのろさを要求する」というロダンの言葉が、あまりにも真実であるだけに、今の時代を生きている私には重い実感となって迫ってくる。

42.
私の心の中の「イーハトーブ」で、私は私自身の姿を追い求める――。それは恐らく精神的な飢えの盲動と呼べる行為であったかも知れない。そういう青春であればそれこそ、今、私は自分に才能があるかないかなどということを、重要な問題としては考えていない。また、そんなことはどうでもよいことなのだ。

45.
他人が私をどう評価しようと、私はかまわない。「アゝ、あれはついにだめになったか」と思われてもいたしかたないのだ。私にとっては、そんな――だめになっていく自分を見るのがまた楽しみである。

 



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